2023年観劇始め〜宝塚星組公演「ディミトリ」①

初めて宝塚を観劇したのは中学生の時。

東宝宝塚劇場で月組「ときめきの花の伝説」でした。大地真央さんの次のトップ、剣幸さん主演の作品でした。その時のわたしは「なぜここで歌う?」「なぜここでダンスを?」など思ってしまい、入り込むことが出来ませんでした。今思えば、わたしの感性が宝塚向きではなかったんですね笑

あの舞台を観て「素敵!」「もっと観たい!」さらに「あの舞台に立ちたい!」と思うのは、感性があるのです。宝塚に向いている、っていうこと。わたしにはそれがなくて。それなりに「すごいな」とは思いましたが、そこまでではなく。

それから縁あって宝塚の町に住んで大学に通う4年間を過ごし、劇場までは徒歩10分、ちょっと行って観てくる、なんて生活。今思うとなんて恵まれていたのでしょう。当時は大浦みずきさんがトップの花組、涼風真世さんの月組、一路真輝さんの雪組、紫苑ゆうさんの星組時代。今は帝劇でも上演されるようになった「エリザベート」の初演初日はよく憶えています。安寿ミラさんのファンでお茶会にも行ったことがありました。その後就職で上京した後はあまり観なくなって、結婚して地方に行ってからは、地方公演はちらほら観ていたのですが特に刺さる方がいず。

「エリザベート」や「ベルばら」が上演されると拝見していたのですが、ある時USJに行きたいという子どもと一緒に、なんならムラで観ようか!と観劇したのですが、退団直前の美弥るりかさんがなぜか深く刺さりオペラグラスが曇りました・・・。そこから5組を観劇するようになり、ファンに復帰しました。

美弥さん退団後はそれぞれの組に「良いな」という人がいて、ライトに楽しんでいました。花は音くり寿さん、永久輝せあさん、月は月城かなとさん、楓ゆきさん、雪は朝美絢さん、星は礼真琴さん、紫りらさん、宙は芹香斗亜さん、和希そらさん。

中でも礼真琴さん・舞空瞳さんの星組トップコンビは素晴らしく、長年見てきたトップコンビの中でも一番身体能力が優れていると断言できます。そのコンビの作品を、何回観られるか・・・それなのに、わたしは事故で観劇が出来なくなった期間があり、一公演観られてないんです(泣)これだけでも慰謝料貰いたいくらいですよ。

で、私の観劇納めは雪組「蒼穹の昴」でキラッキラな朝美絢さんの春児、1月7日に星組公園で観劇始めの予定でしたがなんと中止に!

ここのところ、公演中止がなかったとはいえ、この感染症がなくなったわけではなく。冷や水を浴びせられたような気持ちになったわたしは、今回取れるだけのチケットを確保したのですが。

公演再開後、観劇始めはSS席。しかも前トップコンビと観劇かぶりという幸運なものでした。

お芝居は「ディミトリ〜曙光に散る紫の花」でした。

「礼真琴はヒーロー役者」と演出家の生田大和先生、「歌劇109年の歴史上、歌、ダンス、芝居・・・それらに秀でたスターは数あれど彼女程の高いスキルで三拍子の実力を持ち合わせたプレイヤーはいません」とショー演出家の齋藤吉正先生がプログラムに記していますが、まさにその通り。

「この人が舞台に立っている同じ時代に生まれた幸運」を感じたのは、ダンスの神様・大浦みずきさんを観た時でしたが、同じ感情が湧き上がったのが今回でした。

「ロミオとジュリエット」を観た日から、ずっとふたりの愛が胸に残っている気がしてならず、スレたバツイチ中年女性の人を恋うる心を思い出させてくれました。こんな気持ちになったのは本当に久しぶりでした。

「人が人を愛する姿は美しい」そう感じさせてくれる世界が、宝塚です。

今回の「ディミトリ」はジョージアの女王・ルスダンの幼なじみでルーム・セルジュークからの人質・ディミトリが、ルスダンの兄の夭逝によってその遺言でルスダンの王配(女王の配偶者)となり、モンゴル・ホラズムの侵攻により運命が動いていく、という物語でした。

前作で柳生十兵衛という男の中の男・ヒーローを演じた礼真琴さんは、今回人質の王子であり王配となった後は政治に関わることも制限された、名前さえもルスダンに名付けられたディミトリを演じました。

ディミトリはルスダンとの間に娘ももうけ、幸せに暮らしていましたがホラズムの侵攻により故国のルームから「ジョージアとの同盟を破棄する」と宣告され、臣下からルスダンとの離婚を進言されます。そこで父からホラズムのジャラルッディーンに和平の橋渡しを頼んだところをルスダンに見られて裏切りを疑われ、幽閉され、さらに臣下から敵にジョージアの内政を漏らされる心配を消すために暗殺されかけるという弱い立場。

ここまでではディミトリの主体性というものがあまり見えず、ただ「ルスダンを愛している」男、であります。モンゴルとの戦い・結婚式でのジョージアン・ダンスが見所でしたが、あまりカッコ良いところは出てきません。むしろ自分の存在意義、自分の居場所がルスダンのいるところとしかない、とてもよるべない立場。その苦悩を歌や繊細な優しい演技で表現されていますが、いまいち光るところはありません。礼さんは豪華な衣装がとてもよく似合い、文句なくカッコ良いのですが。しかし、彼はあくまで「ルスダンを愛した男」を貫いた時に、彼の存在は輝いたのです。

ルスダンに幽閉され、ホラズムのジャラルッディーン帝王に助けられ、側近のアン=ナサウィーに試すような視線を向けられつつも、ホラズムに与したディミトリ。

ホラズムの猛攻にもう後がないジョージアに、ジャラルッディーンとの結婚による和睦を勧める使者としてジョージアに現れたディミトリ。(鬼か・・・)ルスダンが徹底抗戦と答えると、あっさりと帰ろうとします。そこに「あなたの息子です、抱いてやってください」と赤ちゃんが・・・。ルスダン、詮索したり浮気したり戦争したり旦那逮捕したり出産したりとさすが女王だね・・・などと思っていたら、そこからディミトリの暗躍が始まります。

正直、ジャラルッディーンにルスダンの兄王・ギオルギと似た王者の器を見て安らぎを得ていたディミトリは、このまま流されていくのかと思ったところ、息子と愛するルスダンとタマラに再会したことでトビリシ奪還を目論んでいく。

ここから我らが有能な礼真琴・ディミトリ、ホラズムの情報を記した手紙を伝書鳩に託し放つ。そこも感心したのが、さすが我らが礼真琴演じるディミトリの伝書鳩はリュックを背負っているんですよ!足に着けるとかじゃないですよ?リュックですよ!さすが礼さんの使う鳩は違う・・・と非常に感心しました(そこ?)

そしてその手紙を信じたルスダンはトリビシを奪還するのですが「ジョージアの裏切り者がホラズムも裏切り、全てが終わった時にあなたの居場所はどこにあるの?」と歌うルスダンに「それはないですよ・・・」と思うわたし。

そもそも「ディミトリ」という名は、彼がジョージアに人質として来た時にキリスト教に改宗しそれ風にルスダンが名付けた名前でした。彼はジョージアに来てから、ルスダンが人生のすべてだったのに。「君は僕の光になった」って歌ってたでしょ・・・

ルスダンはディミトリの本当の孤独を分かっていなかった。彼女だけが彼の寄る辺であり居場所だった。そんな彼がルスダンを裏切るわけはないのだ。彼女には国も守ってくれる臣下も守るべき国民もあったけれど、ディミトリには彼女しかいなかったのに。

ディミトリはルスダンを子どものためにホラズムを裏切り、毒を飲んで自害します。その時、最後までディミトリを信じ、その弁明を訊こうとし、彼の立場と失ったもの、守りたかったものを理解して看取ったのがジャラルッディーンでした。

ジャラルッディーンはモンゴルに国を滅ぼされ、父は流浪ののちに逝去、妻子はモンゴルに殺されています。大切な家族と国を失う悲しみを、誰よりも知っていたジャラルッディーンが、ディミトリを本当に理解できた人だった。その人に「王配として生きた」と認めてもらえて、ディミトリはその感謝と行末を祈り息を引き取ります。この時、ルスダンと子どもたちのことに一切触れないのが印象深かったですね。

ルスダンも、アヴァクからディミトリの訃報を聞くのを遮ります。聞きたくないんでしょうね。認めたくない。幼い時から一緒に生きてきたディミトリが、本当にこの世にいないことを。

そして奪還したトビリシの王宮の、リラの花の下で、ルスダンはディミトリの足跡を見つけますが、そこにはただリラの花弁が散っているだけ・・・ディミトリの幻はルスダンには見えず、ただ「最期まで生き切ったら、よくやったと抱きしめて・・・」と呟き、女王として生きる道に再び戻るルスダン。

ディミトリはずっとリラの花の下でルスダンを待っているのでしょうか。

この作品には原作があり「斜陽の国のルスダン」という並木陽さんの本を読んでみますと、冒頭、ルスダンがディミトリが自害する際に飲んだ狐の手袋という毒を選んで、まさに自害しようとするところから始まります。ディミトリが生命にかえて奪還したトリビシも、ルスダンが命じて燃やしてきたことも。

原作にはないですが、ジャラルッディーンも殺されているのですよね。ナサウィーは彼の伝記を108巻も書いているのです(帝王強火担すぎないか)諸行無常・・・。

ディミトリが命を賭けてしたことは、ほんの一瞬の安寧を守ることだったかもしれません。人が命を賭けても出来ることって、そんなに大それたものではないんでしょうね。

人質として生きてきた青年が、その命をどう使ったか。

わたしの頭にしきりに浮かんだのは「命の使い道」という言葉でした。これは一昨年の月組公演「桜嵐記」で楠木正成の遺児・正行が言った言葉です。北朝に付くか、このまま南朝に仕えるか。自分の命をどう使うか。

ディミトリも、自分が使えるもの、たったひとつ持っているものを、愛する人のために使った。「勇気とは何か」という一文が、公演ポスターに添えられています。

「勇気とは何か」「何が出来るのか」ディミトリが歌います。

「自分が出来ることを勇気を持って命を使ってやっていく」こんな場面はこの現代日本においてなかなかあることではないかもしれません。

それでも、わたしは自分の大切な人のために、自分の出来ることを、その日1日1日、地味だけどやっていくことだと感じました。

最後にディミトリがリラの花の下で歌う素晴らしい歌の歌詞にある

「人は生まれる場所は選べない〜けれど人は生きる道を選びさだめ進んで行ける」という言葉。その中で愛する人と出会い、その人と進んで行けたら。

宝塚は「人が人を愛し、愛される姿」を見せてくれます。その美しさを見たくて、わたしは劇場に足を運びます。何度でも。

ディミトリ役の礼さんの自害の瞬間の無念と、理解された喜びの涙が美しく、最後のお歌も劇場いっぱいに響く歌声を堪能させていただきました。

相手役のルスダン・舞空瞳さんは抜群の美貌と少女の可愛らしさと女王としての強さを好演。今までとは違った力強い芯を感じました。

ジャラルッディーン・瀬央ゆりあさんは帝王の名に相応しく、銀橋からの登場から寛大さと恐ろしさを表現され、ディミトリの心を掴み、安らぎを与える王者の風格でした。

月組から組み替えになった副宰相・アヴァク暁千星さんは得意のダンスを確かな演技で三番手として確固たる演技を見せてくれ、女王の浮気相手となった奴隷ミヘイル・極美慎さんは「綺麗な人」というセリフに全く矛盾なく、ディミトリ一筋だった女王をよろめかせる美貌と一途さを短い出番ながらも印象強く演じていました。

わたしに今回深ーく刺さったのが、ジャラルッディーンの書記官アン=ナサウィーを演じた天華えまさんでした。ナサウィーは帝王・ジャラルッディーンを「我が君」と呼び、文官ですので勇ましい兵ではなく、「名文によって敵を降伏させましょう」と曰う。剣を持ち髭をたくわえた兵士とは違い、敵を短刀でいなし、しかし膝蹴りで一蹴する。ディミトリを暗殺しようとし帝王に斬られたジョージア兵の衣を足先でよけイスラム教に改宗することを拒み殉教するトリビシ市民を眉一つ動かさず眺めている。しかしディミトリがリュック鳩を飛ばすところを見て訝しげに立ち止まるも「憶測で物を言うのを好まない」と帝王に進言しない。その場面ではディミトリに明るく「こんばんは」と挨拶し、疑念を背中に表しながらも問いただすか一瞬の迷い、その機微をにじませる演技。

ディミトリ自害のシーンでは、トリビシ陥落の報に初めて声を荒げるが、内通を見逃してしまったかもしれない己の失策を正直に帝王に告げ恐縮する。ディミトリが服毒した際に現した驚愕と悲しみ。事切れた時に胸に手を当てて一礼する気品。常に帝王を見つめ、王にするために動く有能な書記官。作者の並木陽先生が「未来でジャラルッディーンを喪うことを内包したナサウィーで、その伝記がその後何百年も残ることまで内包した、つまり800年の愛を内包したナサウィー」と評した天華えまさんのナサウィーでした。本当に、ナサウィーが刺さりました。その物腰柔らかで冷徹でこれと思った人には情に厚い、強火担のナサウィーが。

「ディミトリ」が終幕し、休憩を挟んでショーが始まるのですが、そのショーも凄かったんですよ・・・。それはまた別の機会に。

星組の公演は、紅ゆずるさんの退団公演から観ているのですが、ひとりひとりの解析度が上がって、それぞれに個性豊かに成長した組子が素晴らしく、わたしにとって、もしかしたら一番良かった公演かもしれません。取れた公演すべて観ましたが、こんなに観たのは美弥さんの退団公演以来です。

礼真琴率いる星組、一公演でも多く観ていきたいと思います!

 

 

 

伊吹 について

いつもどこかが痛い人生。 なので目が覚めるたびに「あれ?夢かな?」って思ってる毎日。 帰ってきたヅカオタ。 いつも心に煉獄さん。 反抗期の子どもがひとり。つらい。 2008年からのブログ→https://blog.goo.ne.jp/ritsuko-11
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